コリント人への手紙第一 10章

コリント人への手紙第一 10章
=本章の内容=

❶イスラエルの父祖たちの教訓❷悪霊と交わる者➌他人の利益を心がける

=ポイント聖句=

私も、人々が救われるために、自分の利益を求めず、多くの人の利益を求め、どんなことでも、みなの人を喜ばせているのですから。(10:33)

=黙想の記録=

●モーセに率いられて海を渡り、40年間の旅路での生活は、基督者の生活の型であるとパウロは説明します。奴隷状態であったエジプトから引き出されたのは、「基督者の救い」を、海を渡りきることで、「バプテスマ」を、マナや岩からの水は、「聖霊によって養われる生活」を意味しています。ところが、この圧倒的な救いを見続けているにも拘わらず、イスラエルは、この単調と思える荒野の生活に辟易としてくるのです。飽き飽きしてしまうのです。こんなにも単調で刺激のない生活はイスラエルを弱体化し朽ち果てさせていくようにも思えてくるのです。エジプトでの奴隷状態だった時の方がもっと、「活気に満ちたイスラエル人らしいイスラエル人だった」と思えてくるのです。実は「偶像礼拝」とは、主の敷いてくださった軌道の単調さや窮屈さに嫌気をさして、新たな刺激を手に入れようと、神に背を向けることなのです。主に用いられる民となるために、荒野での生活は必須であったのです。ところが彼らは、それを習得するのに40年もかかってしまったのです。実はカナンに入植したときでさへ、主なる神様への服従をここれたいた訳ではないのです。
●「民が、すわっては飲み食いし、立っては踊った」とあります。飲み食いすることや楽器の調べに合わせて踊ることがなぜ断罪されなければならないのでしょうか。「自由を謳歌して何が悪い」、「自由に生きた方が、束縛感もなく(悩むことのない)、楽しい生活(試みのない)になるではないか。」「我が家族の幸せの為なら、この世と妥協しなければ仕方あるまい。」とコリントの信徒からも聞こえてくる様です。コリントの信徒たちは、「自分らしい生き方」を優先し、「イエス様に倣って生きる基礎」を、軽視してきたことに尽きます。コリントの信徒の持つ病理的問題は「基督者の自由を吐き違っている」ことにあります。もっと突っ込んで言うなら、「己の自由の為の生活」ではなく「他者の幸せの為の生き方」にシフトしていなかったことなのです。あなたは基督者としての生活あるいは、今通っている教会に、単調さを感じたり、刺激のなさを覚えたりしていませんか?