コリント人への手紙第一 9章

コリント人への手紙第一 9章
=本章の内容=

❶基督者としての権利❷すべての人の奴隷➌賞を受ける

=ポイント聖句=

私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。 (10:19)

=黙想の記録=

●8章でコリントの信徒「基督者としての自由」の意味をはき違えているとパウロは指摘していました。自分自身の生き方を通して「真の自由人」としての基督者になることを要望しています。パウロはパリサイ派のヒレル派の高名なラビ「ガブリエル」に師事し、将来を嘱望される人物でした。このガマリエルはサンヘドリンで結果的には、使徒たちを擁護した人物でもありました。このガマリエルが見込んでいた男が、よもや、基督者になろうとは。
●目覚ましい宣教活動を行ったパウロはとても質素な暮らしぶりでした。学識を鼻にかけないどころか、多くの信徒に仕えるという立場をとり、さらに、些細な事でも迷惑をかけまいと、天幕つくりを生業(なりわい)としていたのです。つまり自活宣教師だったのです。端から信徒の献金を当てにしていなかったのです。宣教活動の報酬をもらうことに、何の差支えもない立場です。むしろ権利は誰よりあるはずです。パウロはこの権利を敢えて主張しない姿を通し、当時の労働者の信頼を勝ち得ていったのです。
●日本でも奈良時代以降の仏教の堕落は目に余るものがあり、政治、経済への癒着を生み出し、俗人以上に生臭い僧侶が次々現れました。権力を持たせないために、将軍たちは、仏教の弱体化を進めた結果、江戸時代以降、仏教が「葬式仏教」と呼ばれるようになったのです。「踏み絵」は、地方役人と癒着していた僧侶の既得権(葬儀料)を基督教式葬儀に侵害されたことへの報復処置だったことはあまり知られていません。残念ながら現代の僧侶も、お布施と墓守料で、僧侶自身の生活費や建造物の維持費を捻出しなければなりません。時は金なりの現代人です。金で解決できるのなら、葬儀の際に長々としたお説教をするお坊さんより、短時間で全てを済ますお坊さんに人気があるのは当然です。仏教その物には興味がなく、形式を重んじるという世間体で葬儀は回っているのですから。また、短時間で仕事を済ませるのですから回転効率は格段と良いわけですが、逆にこれらのことが、人々から仏教離れを起こさせている大きな要因にもなっているのです。
●この日本独特の環境が、日本のキリスト教会にも少なからぬ影響を与えているとは言えないでしょうか。勤労の対価が優先してしまうとき、宗教は人心から遠ざかるのです。
●基督者の場合、奉仕に対価を期待するのは筋違いです。基督者の場合、献金は、主なる神様への捧げもので、何かに対する対価では決してありません。また何か見返りを求める道具では決してないのです。