コリント人への手紙第一 8章

コリント人への手紙第一 8章
=本章の内容=
❶偶像にささげた肉
=ポイント聖句=その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです。キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです。 あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。 (8:11-12)
=黙想の記録=●本章では偶像礼拝に関しての不健全な主張がコリントの信徒から挙げられました。第一に偶像は物体にしか過ぎないので、偶像崇拝の儀式に参加することは気にすることはない。第二に偶像崇拝の宴会で飲食することは問題ないというものでした。偶像崇拝の儀式はコリントでは日常的なことであり、ここへの参加は商売の人脈を作るうえで大変重要なものだったわけです。「弱い人」は本来的には信仰の初心者とも考えられますが、私個人は、未信者の方でもあると思います。その「弱い人」を躓かせ、「信仰」から遠ざけることをしないようにパウロは注意を与えている様に思えてなりませんでした。
●では私たちがこの日本で、親族や知り合いの仏式葬儀に参加し、飲食をともにすることをどうお考えでしょうか。あるいはキリスト教の異端のグループの葬儀はどうでしょうか。この点に関しては緒論あると思いますが、私はこう考えています。「非礼にならずまた誠を尽くす」ことです。葬儀とは「故人を追悼し、遺族を慰める」のが目的です。自分が葬儀の主役ではないのです。絶好の機会とばかり、これ見よがしに自分の信仰を説明する機会ではないのです。
●私の場合、事前に出会う人にほとんど、「参加するけど拝めないのです。焼香も。理由は・・・。」と説明をしておきます。皆さん怪訝そうな顔つきになりますが、ほとんどの方が「いいんじゃない。俺も信心なんてなくて参列するんだから・・・」と、言葉が返ってきます。「なんで」と聞かれればそこで説明はしますが議論にはなりません。田舎では「何でだ!」と粗暴に聞いてくる人もいますが。争うことはしません。
●仏式の葬儀ではたとえ喪主を引き受けても、礼拝(らいはい)もお焼香もしません。しかし、生きている親族や来客者には深々と礼をしたり、握手したり。肩をたたいて慰めの言葉をかけます。さらに通夜がある場合は、そちらに列席し、葬儀には参加しない時もあります。そちらの方が個人的な話ができるからです。もちろん坊さんは私が基督者であることは先刻承知です。礼拝も焼香もしないことも了解しています。また、親族や身内の葬儀の後の食事会も参加します。坊さんが話しかけるのを一手に引き受けています。ここでも私は「仏教では、基督教では・・・」との議論はしません。話し相手に徹します。金儲けに走らないまじめなお坊さんほど、自分で語る「極楽浄土、輪廻、因縁」が、空しいもので科学的根拠に欠けたものだと知っているのです。時には坊さんから「じゃあ、基督教ではどうなんだね?」という質問もあります。
●「弱い人が滅びる」という言葉を、「自分を主張することで相手を傷つけ、縁を絶たれる」ことと自分なりに解釈しています。