コリント人への手紙第一 4章

コリント人への手紙第一 4章
=本章の内容=
❶キリストの僕・管理者❷しんがりとなる基督者➌キリスト・イエスにある私の生き方
=ポイント聖句=こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。 この場合、管理者には、忠実であることが要求されます。 (4:1-2)
=黙想の記録=●本章は、パウロ自身の証も例にとり、コリントの信徒に「基督者としての生き方」を勧めています。管理者は英語ではstewards・ギリシャ語ではアコイナマスで「管理者・監督者・会計係」という意味があり、当時は解放された解放された男奴隷がその役目にあたりました。主に主人から任された財産管理を任されていました。管理者がどれだけ懸命に働いても、財産運用をどれだけ賢く行っても、財産は自分の物にはなりません。また部下たちを不平を言わせることなく賢く動かしたとしても、主人からの見返りは「良くやった。良い僕だ。」と言われるだけです。一言で言えば、「見返りを期待してはいけない働き人」のことなのです。。また働いている最中に怪我をしたり、病気になっても、それは自己責任。ある程度の治療は受けられても、すぐに仕事に復帰しなければならないのが僕なのです。また「僕(しもべ)」という立場は、自分の自由な時間が取れなくても不平は言えないのです。
●「弟子」はいつしか「師」から離れ独立できますが、「僕」は一生「主人」のものです。この健気な生き方ができる管理者が主人の「お気に入り」になれるのです。心も身体も時間も自分の物ではありません。さらに言うならば、「人生そのものが自分の為ではなく、ひたすら主人に捧げる生き方」であるとパウロは畳みかけて説明するのです。
●「救われて良かった。永遠の命も与えられた。罪が赦されて、神様に愛されている毎日。ハッピー。」「でもね自分の時間も大事にしなきゃ。息苦しくって仕方がない。車のハンドルと同じ。遊びの部分がないと精神的におかしくなる。」と言い訳をしている様では、「神様の僕」とは自称できないのです。
●あなたは、「ただのクリスチャン?」それとも「キリストの弟子?」それとも「神の僕?」。軽々に「神の愛」を口にする前に「忠実に黙々と」主の働きを押し進めてはいかがでしょうか?あなたの口先だけの「愛」は神様にも、他の人にもすでに見抜かれていますよ。