私?ただの旅人です。

SHC通信2023/11/30
若葉マークのキリスト教
お元気ですか。SHLのKernelTenderです。
今回のお話のタイトルは「私?ただの旅人です。」です。
●私の母はアルツハイマー型認知症のため老人介護施設で4年間過ごし92歳で息を引き取りました。母の母、つまり私の祖母はある豪商の妾でした。日本では「おめかけさん」と「さん」をつけたうえで見下していました。因習の強い土地柄の為母を産むとすぐにその土地を追い出され同じ群馬県の奥地にある山村に逃げ込みました。幸いその山村の人々は不遇な親子を温かく迎えてくれました。「父無し子(ててなしご)」ではありましたが村の人々の厚意により母はそれを微塵も感じなかったと言っています。私は小学生時代によくその山村に泊りがけで行きましたが、よく遊んでくれた子供たちの様子から母の思いがとても良く理解できました。今その山村はダムの底です。母は中卒後すぐに東京に出稼ぎに行き、そこで父と出会います。父は呉服商の長男で結婚を猛反対されました。それは母の素性が要因だったことは言うまでもありません。これが原因で父は家業を継がず自営業を始めます。言葉で表現したことは一度もありませんが、母はこの父の思いに応え、愚痴一つ言わずに一途に父に尽くしてきました。また持ち前の明るい性格の為、父の仕事上の関係者やご近所の方々からとても慕われていました。老人介護施設に入所するまでの間母は何度も特別伝道集会に参加してくれましたが正式な信仰告白をしていません。その母は認知症が顕著になる前、私に何度もこう告白したのです。「キリスト教に入信してもいいよ。でもね。先祖が眠るお墓を誰が守っていくの?」私達はこの消極的な言葉を信仰告白と考えています。母は87歳で突然認知症が始まり、徘徊するようになり、パトカーで送り届けられたことが一度。そして、徘徊途中で転倒し、擦過傷、打撲傷のあとが見えたので、緊急入院。そのまま、老人介護施設を数か所渡り終えた末、看取り介護施設に入所します。施設に行くたびに、衰弱していくのが分かりました。とうとう寝たきりになってしまいました。私達は母のいる個室で、讃美歌を歌ったり、聖書から話してあげて、最後にお祈りをすると、いつも小さな声で「アーメン」と答えてくれました。母は人の顔色伺って対応する人ではありません。意識朦朧の中、「アーメン」と言えたのは、小さく芽生えた信仰心からなのだと、家内ともども、うれし涙が出てきました。2018年8月、突然私が心筋梗塞のバイパス手術を受け集中治療室にいたとき、施設にいる母の急変を知らされましたが、なすすべがありません。「神様。退院して母に合わせてください。退院するまで母の命を永らえさせてください。」との祈りは答えられました。病院で72日間療養生活を送り、退院後7日目にようやく母のいる施設に行くことが出来ました。が、人工呼吸器をつけ、食事ができないために栄養剤の入った点滴を打っている姿は、あまりにも痛々しく感じられました。この状態を2か月以上も続けていたのです。母もまた私の無事を確認したいが為に、必死で生き抜いてくれたのです。12月初旬母は天に召されました。息を引き取る2時間前に家内と個室に行き、聖歌の「いつくしみ深き」を賛美し、ルカの福音書23、24章を聞かせ、お祈りしていると、両目から一筋の涙が落ちてきました。息子(重度心身障害者)の為に妻は帰宅し施設の個室には私と母の二人きりになりました。次第に息が荒くなってきたのでいよいよ最期の時が来たのが分かりました。ところが息を引き取る直前ぱっと目を開いて天井を見上げちょっと驚いた顔をしました。その時天からの迎えが母のところに来たことが私にははっきり分かりました。
●私の父は、自尊心の高い人でした。しかし、経営していた工場を倒産させ、築いた財産を一瞬のうちに失い、債務者から「無能者」呼ばわりされ、精神がぼろぼろになりながら老年を向かえるうちに、生きる自信をすっかり失っていました。父は酒を飲むと雄弁ですが、いつもは無口でした。父は母より積極的に福音を聞いてくれました。その父は72歳でパーキンソン病を発症し施設に入れず二つの病院で入院加療を続けました。病院ベッドで、自分では身動きできない状態になったとき、白髪混じりのひげを電気かみそりで剃ってあげたことがありました。余命幾ばくもない父に元気に生えてくるこのひげが、父の命を数分数秒減らしていると思ったとき、私は思わず涙してしまったことを思い出します。残念ながら遠方に出張していて父の死に目には会えませんでした。母と姉が病室で最期を看取りましたが亡くなる直前讃美歌「いつくしみふかき」を口ずさんでいたとのことでした。その父が亡くなる2年ほど前にバイブルキャンプに初めて参加し、韓国人の伝道者の方から話を聞いてイエスキリストを救い主と受け入れてくれました。キャンプ場で讃美歌集を持ち、照れくさそうに歌っていた父の顔はとても印象的でした。父は会社の倒産だけでなく、命にかかわる二度の手術を経験してきました。また満州に出兵している最中に敵兵に襲われ瀕死の状態になったこともあります。父はこうした不運に愚痴をこぼす人ではありませんでした。しかし、伝道集会の帰り道やキャンプ場で親子の会話をするときはいつも決まって「俺のような者がなんで(神様に)生かされてきたのかなあ。」と感慨深く締めくくるのでした。父が入院する前のある日のこと。「クリスチャンになったって、お酒を飲んだり、タバコは吸っていたよ。何も変わらないよ。」父のことを母は私にこんな風に言ってくるのです。私はこんな返答をしました。「お母さん。クリスチャンってね。聖人になることを目指す宗教じゃないんだよ。罪が赦されて天国に行ける切符をもらったただの旅人なんだよ。」母はこの言葉に深く納得したようでした。
③私も含め父も母も100点満点のクリスチャンでは決してありません。むしろ立派な先輩クリスチャンと比較すればマイナス100点の劣等生に違いありません。世の人々の役に立てなかったばかりか迷惑ばかりかけてきたと自覚しています。しかしそれでも私達はクリスチャンです。私はこのみじめな状況を考える時いつでも新約聖書のある個所を引っ張り出して私達の魂の救いの確かさを確認するのです。ルカの福音者23章39〜43節がその箇所です。以下は私流の解説です。
④十字架刑は時間をかけて人を殺す方法のため、この地上で最も残忍な処刑方法と言われています。イエス様が十字架に架かったとき、2人の犯罪者も同時に処刑されました。この2人の犯罪者は強盗を働き、さらに殺人まで犯してしまった者たちです。何が理由でこんな重罪を犯したのか聖書は記載していませんが、誰も好んで犯罪を犯すはずがありません。生活苦であったり、ちょっとした出来心からであったり、悪い仲間の誘いかもしれません。でもこの2人の犯罪人はその犯罪のゆえにつかまって死刑を宣告されたのです。言い訳のしようができないほど明確な犯罪を犯し、今、十字架という残酷な方法で刑を執行されているのです。こんな時ですら2人の犯罪人は、自分を生んでくれて親や、自分を育てた故郷の人々へも、そして自分という人間を作りあげた世間に対して、のどがかれるまで悪口を言い続けるのでした。ところがこの2人の犯罪人の真ん中には、同じ十字架刑を受けている見たことも聞いたこともない男がいるのです。兵隊たちは極悪非道な自分たちより、真ん中の男に興味津々なのです。さらに当時のユダヤ人社会のトップエリートの宗教家たちが、この男のことをののしっているのです。しかもこの宗教家たちの口から、「神の子なら」とか「神殿を壊す者よ」とか、おおよそ自分たち2人とはかけ離れた内容でののしっているのです。さらに、苦しみの極みにいるにも関わらず、この真ん中の男から出てくる言葉は、自分を十字架にかけた者たち全員の赦免を神に乞う言葉でした。自分たちを見に来る親戚縁者はだれもいません。むしろ、自分が殺してきた身内の者たちの、ののしりの言葉に囲まれて居たはずです。しかし、この真ん中の男のそばには、この悲劇を泣き悲しむ女性たちがいましたが、この真ん中の男は彼女たちにも優しい言葉をかけているのです。十字架刑の執行の場面としては全く異質な感じがしてきたのです。その真ん中の男の名は「イエス」でした。
⑤いよいよ迫りくる死の恐怖に、極悪非道な事件を起こした二人の犯罪者のうちの一人が、はっと気が付くのです。特に「神」「赦し」の二つの言葉に反応している自分がいるのです。「神なんていない」「神なんてふんぞり返って、俺のことなど関心がない」と思い込んでいたのです。ところが、真ん中のイエスの言葉や様子を見るうちに、彼は神が身近な存在に思えてくるのです。また、汚れた自分の魂が洗われていくのを感じてくるのです。これから地獄に落ちようとしている自分は被害者に罪滅ぼしなんてできない。「でもこんな自分でも大丈夫だろうか」彼はある結論をくだします。「イエス様こそ本物のメシヤ(救世主)だ。今地上と天国に橋を架けようとしているんだ。」彼は渾身の力を振り絞り、イエス様に声を掛けます。「イエスよ。」するとイエス様は、待っていたとばかりにその男の方に振り向きます。男は続けます。「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」天国に入れる資格など自分にはない。そんなことは承知の上だったのです。そしてあまりにも虫のいい話であることは自覚していたのです。ですが、イエス様なら、それができると彼は確信できたのです。するとイエス様は彼に向ってこう宣言なさるのです。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われたのです。「楽園にいる」とは、つまり「神にすべてが赦された」ことを意味します。この犯罪人の魂が癒された瞬間の出来事でした。
⑥私達は資格があるから天国に行けるのではありません。クリスチャンとしての修行を積んだとか、慈善事業などの功績があったからでもありません。私達が罪を赦され天国に行けるのは私達の創造主である神様の願いであるからです。クリスチャンとは「天国行切符をもらったただの旅人」のことなのです。あなたはその切符をもらいましたか?
<聖書の言葉>
ルカの福音者23章39〜43節